航空プラザの零戦模型は紹介しましたが
このコクピット
これも精密模型、 機体の材質まで本物と同じアルミ財(実機はジュラルミンですが)で作られていてリアル
陸軍一式戦闘機 隼
最初期のタイプですね エンジンは零戦21型と同じ 格闘戦に優れた戦闘機
カタチ的には 現用兵器にくらべ大戦中の兵器の方がカッコイイ
因みに 写真は 今のイージス艦
で・・・・・・・・・
更に古くなると
二宮忠八の玉虫型飛行機
実現していれば ライト兄弟より早く空を飛んだ 可能性が
研究のレポート
模型は問題な飛んだ様です
日本人も飛行機に関しては 進んでいたのです
更に驚くことに 藩政期すでに日本人で滑空に成功していた人物が・・・オットー リリエンタールより前にです
鳥人!幸吉 浮田 幸吉 1757-不詳 うきた こうきち | http://www.saitama-subaru.co.jp/plane/uki_03.gif | |||||||
1757年(宝暦13年)、備前の国“児島郡八浜”(現在の岡山県玉野市)で幸吉は誕生しました。7歳の時、父親が突然亡くなり、親戚の傘屋へ奉公に出されてしまいました。厳しい生活になりましたが、辛抱強く、もともと手先の器用な幸吉は、傘張りの仕事もみるみる上達しました。そんな折、時々出かる両児山(ふたごやま)では、幼なじみと会って、空をゆったりと飛ぶ鳥を眺めました。この頃から大空への夢を抱き初めていたのかもしれません。飛び方を観察し、また生け捕りにして羽の長さを計ったり、体の重さと比率を計算したり、鳥の研究に打ち込むようになりました。仕事の合間に研究した資料をもとに飛行装置(現在のグライダーのようなもの)を製作し、約1ヶ月ほどでようやく完成しました。 まず、郷里の八浜へ行き、八幡宮の境内から傾斜を走り、地面から離れました。すぐさま落下してしまいましたが、飛べることは実証されました。はやる気持ちを抑えながら岡山に戻り、城下町の京橋で再び飛ぶことに決めました。 1785年8月、いよいよ決行の日。幸吉は京橋の欄干で風を待ちました。そして橋の下から吹き上げる風に気付くと、欄干を蹴り“ふわり”と空中に舞いあがり、頭上で一回旋回し、飛行することに成功しました。これが日本で初めての飛行と言われています。そしてすぐさま落下していまいましたが、目撃した人々は、「鳥人が空から降りてきた」「白い羽をつけた天狗が空高く飛びまわった」など大騒ぎになりました。その後、「奇行をもって人を騒がせた」という理由で留置されてしまいましたが、藩主池田治政の温情により所払いとなりました。 静岡に移り住み、「備前屋幸吉」の名で備前児島の木綿を扱う店を開き、平穏な余生を送ったと伝えられています。それから100年以上が経ち、ドイツ人のオットー・リリエンタールが1891年に同じような飛行装置で、初飛行に成功していますが、この初飛行より100年以上も前に幸吉は飛行を成し遂げたと伝えられています。 | ||||||||
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以上 日本航空館のホームページより抜粋
ヒコーキに関しては 日本は進んでますね
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帰り道 安宅方面へ
梯川 河口