万年NA バイク日記

北陸のポンコツ乗り、バイクを通じて欲のままに生きてます

カワサキA1S


ウィキペディアよりコピーに写真追加


カワサキ・250A1サムライ

カワサキ・250A1サムライ
1966年仕様[1]
基本情報 排気量クラスメーカー 車体型式エンジン 内径x行程 / 圧縮比最高出力最大トルク 乾燥重量
Kawasaki A 1 Samurai Umbau.jpg
カウルを装着した車両
軽二輪
日本の旗川崎重工業
A1
A1E型 247cm3 2ストローク
空冷ロータリーディスクバルブ並列2気筒
53.0mm x 56.0mm / 7.0:1
22.8kW(31PS)/8,000rpm
28.6Nm(2.92kgf・m)/7,500rpm
145kg
[隠す]
      詳細情報
製造国日本の旗 日本
製造期間1966年-1971年
タイプロードスポーツ
設計統括
デザイン
フレームダブルクレードル
全長x全幅x全高1,995mm x 810mm x 1,075mm
ホイールベース1,295mm
最低地上高160mm
シート高
燃料供給装置キャブレター (ミクニVM22SC)
始動方式キック式
潤滑方式分離式
駆動方式チェーンドライブ
変速機5段リターン
サスペンションφ34mm正立テレスコピック
スイングアーム式
キャスター / トレール27.0° / 86mm
ブレーキφ180mmドラムブレーキ
φ180mmドラムブレーキ
タイヤサイズ3.00-18
3.25-18
最高速度165
乗車定員2人
燃料タンク容量13.5L
燃費42km/L
カラーバリエーション
本体価格187,000円(税別)
備考
先代
後継カワサキ・マッハ
姉妹車 / OEMカワサキ・350A7アベンジャー
同クラスの車ホンダ・ドリームCB250英語版
テンプレートを表示
250A1サムライ(にひゃくごじゅうエーワンサムライ)とは、当時の川崎航空機工業1966年から1971年まで販売していた、250cc2ストロークエンジンを搭載した普通自動二輪車軽二輪)である。日本国内での名称は250A1、サムライはアメリカでのペットネーム。 なお、川崎重工業統合以前の製品ではあるが、便宜上、本記事では川崎重工業、あるいは現行制度下での川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニーの製品と解釈する。

概要[編集]

国内最後発オートバイメーカーである川崎重工業1965年10月の日本グランプリよりロードレースへの参加を開始した[2][3]。そして、カワサキブランドでは小排気量実用オートバイだけを生産していた川崎重工業が、カワサキブランドでのスポーツモデル分野の開拓に採用した車両が当時のロードレーサーKACスペシャルと基本設計を共有する250A1であった[3]。これは当時、単気筒エンジンには採用されていたものの、直列2気筒エンジンとしては先進的な、グランプリマシンに通じる発電、点火系統を背面レイアウトとしたロータリーディスクバルブ吸入を特徴とする車両であった[3][注釈 1]こうして開発された250A1とともに、翌1966年3月には初めての海外挑戦としてイギリスブランズ・ハッチへ125ccレーサーを送り出し、実用車メーカーにとどまらない経営転換を行った[2]
1966年当時の日本のスポーツモデルでは欧州のスポーツモデルのようなタンクが球形に近く、丸みをおびたデザインが主流であった[4]。一方、A1はアメリカで販売を行っていた商社や現地マーケティング担当者の声を受け、アメリカに多く見られた前後に長いティアドロップ型のガソリンタンクや、キャンディレッド×ホワイトのカラーリングを採用し、アメリカでの流行を取り入れたデザインが採用された[4]

車両解説[編集]

アメリカ市場でのB1B11D1G1といった2ストローク単気筒車両の堅調な売れ行きはあったものの、高性能でスポーツ走行が可能な車両を持たなかったカワサキがブランドイメージを向上させるために250ccで時速160kmを達成するという目標のもとにエンジン開発は行われた[3]。当時日本国内には時速160kmでの連続走行が可能なコースが無かったため、試作車は他社と同様にアメリカへ持ち込まれ耐久実験が行われた[3]。他社がカリフォルニア州で実験を行う中、A1の試作車両はオクラホマ州で秘密裏に実験が行われた[3]ヤマハやスズキの対抗車種との同時比較実験の結果、従来の鋳鉄製シリンダーをアルミシリンダーに変更するなどの改良を施し、最高速度時速165km、ゼロヨン加速15.1秒という高出力を発揮するエンジンが完成した[4]。当時の日本でのキャッチコピーは「ハイウェーのエンジン革命、トリプル・ツイン!」というものであった[4][注釈 2]
本格的なスポーツモデルを製作するにあたり、実用車で用いられていたプレスフレームでなく、カワサキとしては初めて本格的なダブルクレードルフレームを採用した車体設計がなされることとなった[4]。この作業は旧目黒製作所解体に伴い、横浜から明石工場へと移ってきた車体設計部門の技術者たちが担当し、それまでのダブルクレードルフレームに、シート基部からスイングアームピボットまで新たにフレームを加えることにより剛性を高めたフレームが設計された[4]

遍歴[編集]

  • 1969年 - 分離メーター、独立ヘッドライト、前後ステンレスフェンダーを装着したA1Sが発売される。
  • 1969年10月 - モデルチェンジが行われ、A1S(型式名称A1A)、A7S(型式名称A7A)、A1SS(型式名称A1SSA)がモーターショーに出品される。
  • イメージ 3


  • 1971年2月 - カラーリング変更が行われ、タンクのデカールをマッハIIIと同様のパターンに変更したA1S(型式名称A1B)が国内販売開始。同様の変更が行われた型式名称それぞれA7B、A1SSB、A7SSBの輸出開始。[注釈 3]
  • イメージ 4

  • イメージ 5

モデル一覧[編集]

A1S[編集]

A1の特別仕様車として分離式メーターや独立ヘッドライト、ステンレス製フェンダーを搭載したモデル[5]。1971年2月にマイナーチェンジが行われた後には正式名称A1Bとなり、タンクのデカールがマッハと同じパターンに変更された[6]

A1SS[編集]

未舗装路走行を考慮したアップタイプマフラーを搭載したスクランブラーモデル[5]。1971年2月にマイナーチェンジが行われた後には正式名称A1SSBとなった[6]

A1R[編集]

1966年7月に日本で250A1が発表され、輸出が開始されるなりアメリカのローカルレースではサーキットを走行する250A1サムライの姿がみられた[4]。当初より国際レースへの参加が計画されており、販売と同時にワークスチームではA1Rの開発が行われていた[4]1966年のロードレース世界選手権の一戦として10月16日に富士スピードウェイで行われた日本グランプリと同時開催の日本MFJ選手権では金谷秀夫の搭乗するA1Rが優勝こそ逃すものの、全米モーターサイクル協会英語版におけるAMA Grand National Championship1967年1968年王者である