3月7日日曜日
この日は寒かったですね
平野の左右を山で囲まれた地形
県道244スイッチ、中能登町に入る
梅はまだ咲き始め
芹川の名前が出て来ました
途中に古墳
もう一月も経てば 桜の咲くピンクの古墳に
県道は緩い登り
来ました 芹川の交差点
此処を右折して
直ぐにまた右折
此処が 勝山城入口
看板が立ってます
勝山城の出来た方が文の後ろにの方に書かれて 時系列がわかりにくいんですが・・・
勝山城が歴史上に登場するのが
この地方を治めていた大名 「畠山義綱」
肖像は某戦国ゲームより
しかし その頃 勝山城の城主は
家臣の 「温井総宗」
その頃の畠山家は 家臣団の力が強く その筆頭が温井家
家臣の中には そのうちキーワード神保家の名前も(しかも温井派)
因みに東京にある古本で有名な町 神保町は 神保氏の流れで 名前が付いたそうで ・・・ つまり最終的には徳川の旗本として生き残った波乱の家系
元々は 石川県にも ゆかりの名前だったのですね
因みに富山城の城主の神保家が本家
畠山家の家臣の神保は分家 戦国の頃は対立していたことも
この後 キーワードの一人となる武将 神保氏春(張)
下記のコピペ参照↓
神保 氏張
(じんぼ うじはる) 神保・上杉・織田・徳川を渡り歩く
「神保」は「じんぼう」とも読む。 越中(富山)に勢力を持っていた「神保家」の一族。
ただ、彼は何度も主君を変えており、神保家や上杉家にいた期間は短い。
元は能登半島の大名「畠山家」の出身で、神保家に養子に出されたが、畠山の武将に内通していたという。
神保家が上杉家に攻められると上杉家に従属し、しかし上杉家が織田家に攻められると織田家に従属するというように、各勢力を行き来する。
結果的には織田家の越中と能登の平定に貢献し、織田軍の佐々成政の配下となるが、「本能寺の変」で織田信長は死去。
佐々成政は秀吉&前田利家と対立することになり、この戦いに神保氏張も参戦するが敗れ、佐々成政の死後は浪人となってしまった。
後に徳川家康に仕え、子が幕臣となり、江戸に武家屋敷を構えた。
東京の「神保町」は、この神保家の武家屋敷があった事から名付けられている。
↓ 戦国時代は主君が変わると立場も変わるのでややこしい
「昨日の友は今日の敵」